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大阪湾の歴史

 

『大阪湾の形成』

 古代の大阪湾は、大阪平野の奥深くまで入り込み、東は生駒山西麓にいたる広大な河内湾が広がり、上町台地が半島のように突き出ており現在とは大きく趣の異なる地形であった。
 この上町台地北側の砂州はその後も北へ伸び、縄文時代中期には潟の部分の淡水化が進んでゆき、弥生時代には大きな湖ができあがった。そして、古墳時代に入り、この湖は人間の手によって大きく変貌した。

 

 

 

 

『古代の大坂みなと』

 仁徳天皇が行った堀江の開削は、洪水対策と水運発達に役立った。
 645(大化元)年に始まる「大化の改新」により、大阪は歴史の表舞台となった。難波津は国家的なみなととして外交の基地、献納物の中継点・集散地、国家的水上交通のターミナル、警察、軍事の拠点として発展した。
初期の遣唐使船もここから出発していった。

 

 

『中世の大坂みなと』

 長岡京や平安京遷都後、難波津は港としての機能はほとんどなくなっていった。
 鎌倉時代には、政治の中心も関東へ移ったため、大阪の発展は期待できなくなった。
 室町時代の中期から自治都市が発達し、都市全体の防衛力を備えた城のような都市が出現した。大阪では、堺、平野、貝塚、石山本願寺などである。堺は、今井氏を中心に親信長政策をとり、軍資金の提供だけでなく、鉄砲などの武器も多く提供し、町全体も栄えた。

 

『秀吉と大坂みなと』

 織田信長のあと天下を握った豊臣秀吉は、旧石山本願寺のあとに、大坂城を建設し、全国の中心都市とした。
 豊臣秀吉の時代から少しずつ制度化されていった朱印状を使った海外貿易は、関ヶ原の合戦後、天下を握った徳川家康が1601(慶長6)年に本格的に制度化していった。朱印貿易は大きく栄え、東南アジア諸国に日本町も多くでき、日本国内も大坂や堺をはじめ、西日本各地でも貿易を中心に栄えていった。

 

『江戸時代の大坂みなと』

◆堀川の整備とみなと・まちづくり

 大坂は古くから「水の都」として知られていた。これは、東横堀川から西の地域に、道頓堀川、長堀川、西横堀川、立売堀川、江戸堀川など数多くの堀川が開削(土木工事をして運河などを通すこと)されたからである。堀川の開削は、まちの建設と拡張、下水と排水対策、そして水運の便を図るという総合開発であった。堀川は、水運を基盤にしたまちの繁栄に大きく役立った。この水路網は、今日の高速道路に匹敵するものである。また、この水路網を利用して大坂と西国を結ぶ船が発着し、中之島には多くの蔵屋敷が開設された。堀川沿いには雑喉場魚市場、天満青物市場、堂島米市場などが立っていた。堀川開削では、土地の開発を民間が行う方式がとられ、開発者にその土地の使用権を認め、開発者の名前が付けられた。長堀を開削し心斎橋をかけた岡田心斎、道頓堀を開削した成安道頓などが有名である。

 

元禄元年間の大坂の地図「大坂建設史夜話 附図」より(財)大阪都市協会

 

江戸時代の大坂みなと

◆新田のひろがり

 川浚えですくい採った土砂は新田開発に活用された。新田開発は主に旧大和川沿いと海側で行われた。
 現在の大阪市の内、築港工事で埋め立てた部分を除くと全面積の約3分の1が元は海面下で、新田造成後に生まれた地域である。

 

新田の地図「大坂大・一覧」より

 

江戸時代の大坂みなと

◆西廻り航路と天下の台所

 河村瑞賢は、米を安全に輸送するため、太平洋沿岸を南下し、房総半島を迂回して江戸に至る東廻りの航路を開発した。また、瑞賢は天然の航路である瀬戸内海に着目し、日本海沿岸の港から西に向かい、下関海峡、瀬戸内海を通過して大坂に至る西廻り航路を改良した。それまで、日本海側から大坂までは陸路・琵琶湖・河川を利用するルートが一般的であった。しかし、西廻り航路による輸送は、輸送費も安く、積み替えによる損傷も少なくなり、大坂へ盛んに送られるようになった。このように、西廻り航路は、大坂みなとへの物資集中力を一気に高め、「天下の台所」としての大坂の地位を決定づけた。

 

◆北前船は海のマーケット

 西廻り航路を使って、大坂と北海道を往復する船を北前船と呼んだ。船主が荷主を兼ねて、港々で商売しながら航行する船のことである。
 木綿や酒、古着などを積み込み北前船は3月末から4月初旬に大坂を出港し、港々で商いしながら北海道に到着した。北海道ではニシンなどの海産物を積み込み、特にニシンの内臓から取れるニシンかすは、大坂周辺で盛んだった綿花の肥料として取引されていた。8月中旬に出港した北前船は、商品を港で売りさばきながら大坂に戻ってくる。天下の台所と諸国をつないだ西廻り航路。日本海を渡る北前船は、まさに海のマーケットとして活躍していた。

 

◆上方~江戸間の海運、菱垣、廻船~

 上方から江戸への物資輸送を担う海開業が発達した。この上方から江戸間の航路で活躍したのが菱垣廻船で、1619(元和5)年に堺の商人が日常物資を江戸へ廻送したことにはじまり、1624(寛永元)年には、大坂北浜の泉屋平右衛門が定期的な運行をはじめた。積荷は、木綿、油、酒、醤油などの日常物資であった。
 18世紀に入ると、お酒の生産に対する規制がなくなり、荷主である灘の酒造家たちは自分たちで物流を掌握しようと、1730年お酒を運ぶ専用船、樽廻船をはじめた。菱垣廻船と対立するようになり、たびたび積荷協定が結ばれた。その後、1877(明治10)年蒸気船就航まで菱垣廻船と樽廻船は上方~江戸間の輸送に活躍した。菱垣廻船は、江戸への日常物資の大量輸送と安定供給に大いに貢献するとともに、大坂の加工業の隆盛を促し、経済の発展を導いた。上方~江戸間の「海の主役」として近世海運史上並ぶものがないほど大きな足跡を残した。

 

大阪は、15世紀頃から江戸時代には多くは「大坂」と著されていた。
明治に入って「坂」は土に返るという意味があるとして「阪」の字が使われるようになった。

参考資料:なにわの海の時空館「海と大阪」

 

 


   


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