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∥大阪湾の歴史
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『大阪湾の形成』 |
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古代の大阪湾は、大阪平野の奥深くまで入り込み、東は生駒山西麓にいたる広大な河内湾が広がり、上町台地が半島のように突き出ており現在とは大きく趣の異なる地形であった。 |
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『古代の大坂みなと』 |
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『中世の大坂みなと』 |
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長岡京や平安京遷都後、難波津は港としての機能はほとんどなくなっていった。 |
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『秀吉と大坂みなと』 |
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織田信長のあと天下を握った豊臣秀吉は、旧石山本願寺のあとに、大坂城を建設し、全国の中心都市とした。 |
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『江戸時代の大坂みなと』 |
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◆堀川の整備とみなと・まちづくり |
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大坂は古くから「水の都」として知られていた。これは、東横堀川から西の地域に、道頓堀川、長堀川、西横堀川、立売堀川、江戸堀川など数多くの堀川が開削(土木工事をして運河などを通すこと)されたからである。堀川の開削は、まちの建設と拡張、下水と排水対策、そして水運の便を図るという総合開発であった。堀川は、水運を基盤にしたまちの繁栄に大きく役立った。この水路網は、今日の高速道路に匹敵するものである。また、この水路網を利用して大坂と西国を結ぶ船が発着し、中之島には多くの蔵屋敷が開設された。堀川沿いには雑喉場魚市場、天満青物市場、堂島米市場などが立っていた。堀川開削では、土地の開発を民間が行う方式がとられ、開発者にその土地の使用権を認め、開発者の名前が付けられた。長堀を開削し心斎橋をかけた岡田心斎、道頓堀を開削した成安道頓などが有名である。 |
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江戸時代の大坂みなと |
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◆新田のひろがり |
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川浚えですくい採った土砂は新田開発に活用された。新田開発は主に旧大和川沿いと海側で行われた。 |
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江戸時代の大坂みなと |
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◆西廻り航路と天下の台所 |
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河村瑞賢は、米を安全に輸送するため、太平洋沿岸を南下し、房総半島を迂回して江戸に至る東廻りの航路を開発した。また、瑞賢は天然の航路である瀬戸内海に着目し、日本海沿岸の港から西に向かい、下関海峡、瀬戸内海を通過して大坂に至る西廻り航路を改良した。それまで、日本海側から大坂までは陸路・琵琶湖・河川を利用するルートが一般的であった。しかし、西廻り航路による輸送は、輸送費も安く、積み替えによる損傷も少なくなり、大坂へ盛んに送られるようになった。このように、西廻り航路は、大坂みなとへの物資集中力を一気に高め、「天下の台所」としての大坂の地位を決定づけた。 |
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◆北前船は海のマーケット |
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西廻り航路を使って、大坂と北海道を往復する船を北前船と呼んだ。船主が荷主を兼ねて、港々で商売しながら航行する船のことである。 |
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◆上方~江戸間の海運、菱垣、廻船~ |
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上方から江戸への物資輸送を担う海開業が発達した。この上方から江戸間の航路で活躍したのが菱垣廻船で、1619(元和5)年に堺の商人が日常物資を江戸へ廻送したことにはじまり、1624(寛永元)年には、大坂北浜の泉屋平右衛門が定期的な運行をはじめた。積荷は、木綿、油、酒、醤油などの日常物資であった。 |
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参考資料:なにわの海の時空館「海と大阪」 |
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